解体する自己

金沢に出張しておりまして
東京経由で帰ってまいりました。
 
金沢に行ったときに、金沢21世紀美術館に行ってまいりました!
ぱんぱかぱーん!
嬉しいです。
学会より、金沢城金沢21世紀美術館が楽しみで楽しみで、
そこには何をおいても行きたい!というか、ご褒美として行かせろ、
と念じておりました。
 
 
そして行った金沢21世紀美術館
 
すごい
 
すごい!!
 
本当に素晴らしいです。
金沢に住んでいたら、絶対友の会会員になる。
というか、金沢に住みたい。
 

ああ、記録しておきたい本題からどんどん離れていく/笑。
 
サイトウ・マコトの展示をやっていたので、観た。
その感想。
 
サイトウマコト、初めて観たのだけど。
観ているうちに、じわじわくる。
 
観ていたら、茂木健一郎のブログで聞いた、塩谷賢の話を思い出した。
 
人が、光や、小さな何かに解体してゆくような絵を見ていると、
その解体してゆくものが、自分に重なって行く。
 
「私が私だと思っている、この私という感覚はいったい何が感じているのか?私が感じる、とは一体何なのか」
 
教会の鐘のような印象を立ち上がらせて、私の中で鳴り響く。
私などあり得ない、という思いが波のようにやってきて、押し流す。
無声映画のような感覚。
動きだけがあり、静寂の中で動いてゆく。
小さな何かの集合体の私が、
何かを核にして、私を成し、振動しながら、危ういところで解体を免れている。
そうでありながら、常に解体して行き、小さなものが入れ替わり、
入れ替わりながら、周囲の振動に共鳴して何かの音となり、
その音がまた私となる。
私でありながら、確固たる私というものはなく、私は常に私達でしかありえない。
 
統合しているという思い込みは、すでに私が私達でしかありえないという状況の中では、
私という私達を認識しようとすれば、現実から分離し、
私達であるその存在することから分裂している。
 
それは、大きな魚の群れが、
それ自体が魚であり、魚たちであることと同じだろうか。
 
私は私達でしかありえないい。
小さな私達があり、その私達がさらに大きな私達であることを本当に知ったとき、
どこにも私というものはない、ということに気づくのかもしれない。
私はそれに、気付きつつある道の上にいるのかもしれない。
 
自己という幻想が解体し、私は私達になり、
私は私達でしかありえないことに気付いた時、
私というものはもう存在し得ないのではないだろうか。
 
 
私などというものは、本来はないものなのだ。
自己という幻想が解体する。
自己という仮面をつけていることを、自覚する時がやってくる。
私という、うすい皮の下に隠した私達を見たとき、自己は解体するしかないのではないか。
 
「祈り」という作品の前で、
私が私だと思う何かにアクセスする。
私に語りかける、このフェルトセンスは何だろう。
私というものだと感じるこの私が、このフェルトセンスを感じているということは、いったい何?
 
 
 
その他、勝手にフェルトセンスが立ちあがってきた作品。

 
カプーアは実は再会で、福岡市美術館で違う作品を見てうっとりしていたのだった。
カプーアもね、もうやばいです。
寝袋を持ち込んで、三日ぐらい作品の前に居たかった。
一日中部屋の中の椅子に座っていなければならない学芸員さんが、超うらやましかった。
 
有名どころ