ひとつの死

申し訳ないのですが、死ねばいいのにと思いました。
特に、私にひどいことをしたわけもない人に。
いや、私のセンサーはちょっと反応が敏感なので、酷いことなのかもしれない。
私にとっては。
 
ていうか、私は何も見ていなかったのだなぁ、と思った月末。
自分があんなに、嫌いだと思っていた人がいたことに驚いた。
べつに、その人自身がなにか、特出した酷いことをしたわけでもないのに。
というか、その人の存在がなかったら私は生きるのがとても楽だったわけです。
その人がとても善人だったわけで。
 
誰にとって、というと
私と、親と、その周りの社会にとって。
実際のその人とは、全く関係のない判断の上で。
無自覚の判断ほど、アブナイびょーきはないっすよ。
 
比較が苦しみの種だということを今は分かっているわけですが。
旧約聖書で、兄弟殺しの話が出てきますが、
まあ、あれです。
あれをやりました、月末。
弟を殺す兄の心は、よく分かる。
殺してよかったのだ、と思う。
何故そこで、兄に罰が下るのか。
弟を殺さなければならないほどに苦しめた源も、
弟を殺す勇気を与えてしまったのも、
弟を殺さずにすんだかもしれない、心の強さを与えなかったのも
弟を殺せないほどに強い恐怖心を与えなかったのも
弟を殺せないほどに兄との間に愛情を育てる機会を与えなかったのも
統べて神なるものによるものであるのだから
罰を下しているものがいるとしたら
それは神なるもの自身ではない、
と私は思う。
だって、それ自身が共に統べたる神そのなのだから、どうして罰せるのだ。
真理に、真なる罰は存在しない。
それが何者かによってなされるのなら、それは自身によるのではないか。
 
 
実際に何を殺したかというと、
自分の中にあるその人であって、
現実の人物はちゃんと生きていますよ/笑。
さっき、メールのやり取りもしましたよ。
生きてます、大丈夫です。
 
第一、人を殺して正気でいられるほど鈍感ではないので
殺したら、私の精神の大きな部分が死んでしまうでしょう。
まあ、そこまでする相手じゃない。
私の中で殺してしまえばいいのだ。
それだけでも、相当の痛みを味わったが。
痛みの反動で(と分かったのは後になってだが)、
その時は相当毒を吐きまして。
その節はどうも/汗。
 
 
つまりは何が起こっていたかというと、
ネクターがつながったまま、へんな電気が入ってくるというか
なんだろう、
私があるパソコンみたいな機械だとして
知らないうちに変なプログラムを作ってしまったとして
ある回路というか、電源入れると、いつもおかしいことが起こっていた。
そのおかしいことが起こっている原因がプログラムの方だと分かったので、
でも、つながっていると、バグが起こるので、
そこにつながってる、コード切ってしまえ!
電源落としちまえ!みたいな。
 
そんで、ひとつの部分が死ぬことを許したわけで。
それは、その人でありながら私であるわけで。
死んでしまえ、じゃないが、
殺したのでした。
 
もう本当に、長い間、よく我慢してきた、私。
15年以上だよ。
もういい。
もういいじゃないか。
 
まあ、機械と違うのは、
「これがバグの原因だ、回路を切って止めておくのがよいだろう」
と気づいた時点で、もう治療が始まっていること。
もう、切っちまえ、というそれ自体が治療だから。
暫く放っておけば、癒えるだろう。
人の力は、そういうものだ。
みんな持ってる力だ。
 
さいなら、幻の善人よ。
私の鏡は曇っていました。
この鏡を通してしか、人はものを見られない。
本当の自分を見ていないどころか、
本来のあなたも、私は見ようとしていなかったのだ。
怖ろしくて。
この怖ろしい道こそが
本来の人生のアートであることに
全く気がつかずに生きていたのだ。
どうか許してほしい。
 
 
自らの本当の真理を見て、実行して、そのものであることの恐怖から逃げ続けていた。
それ自体があることにすら目を向けようとできなかった時は、
それ自身であることから離れる苦しみに落ちているときでもあった。
けれど、あの強い恐怖は、反面、
そのものの持つ力の大きさを、もう知っていたということだ。
逃げなくていいということを知って、本当に良かった。
少しずつ、怖れも受け入れて、そのものとして生きよう。
それが一個人としての、最大の創造性の表現だと思う。