ブログを移ろう

行き詰まりは怠惰のせいではなく、恐怖のなせる業である。
ずっとやりたかったことを、やりなさい。

近いうちに、ブログを移転する予定です。
昨日決めた。
 
 
いやあのね、
最近の色々を気がついたりとかして、
もう被害者意識とかでいっぱいでみじめさとかどうにかしてくれ!!
というところに至ったのですが。
それで、その、まあ中高時代に散々された比較とか、
いろんなことを思い出していた。
ひとつ、大きなものを捨てたぞ!と思っていたのに
昨日、もやもやもやもやしていて
フォーカシングするにも落ち着けなかったので、
夜中だけどモーニングページみたいにノートにだらだら書いた。
 
そしたら、
まず、「悲しみでいっぱいだ、悲しみでいっぱいだ」という思いがあふれてきた。
しばらくそれを見ていると、次は
「ビョーキと呼ばれて嬉しいわけがないだろうが!」
という思いが出てきた。
怒ってますね。
物凄く怒ってますね。
よく無視してきた、これを/汗。
 
このビョーキというのは、
私が中高時代に呼ばれていたあだ名の意味がそれなのだが、
もう、中学の時からだから15年以上もそのあだ名なわけですね。
その間、どうしていたかというと、
「いや、これは悪いものではない」
と自分に言い聞かせてきたわけだ。
なもんで、うっかりそれをまた人に使わせようとしたり
わけのわからん行動に出たりしていたわけです。
 
そのあだ名がついたばかりの時はどうしていたかというと、
初めはそりゃ、やめてくれと意思表示していた覚えがあるが
あっという間に本名よりあだ名のほうが広がって
もうそれが本名だと思うやつまで出てきて
あきらめた。
という経緯だったと思う。
それで、在学中の6年間。
卒業して、10年間。
 
 
おい!
なにやってんだ!
私は自分を守るために、自分の周りの友人にだけでも細々とでも、
「そんなん、嫌だ」と言い続けるべきだった。
自分を守ることを怠っていた。
なぜ怠っていたかというと、怖かったからだ。
小学校時代は何やらの標的になることが多くて、
まともに友人と言える人は殆どいなかった。
まあ、正しさに固執して融通のきかない子供だったけど。
その上、自分じゃなかなかその正しい姿でいられないので
葛藤と恐怖でおかしなことになっていたような気がするが。
だからこそというか、妄想の世界に逃げ込む能力が高くなったんだと思いますけれども。
まあ、小学校時代はとにかく、親に愛されたかったんです。
拒否したら捨てられる、捨てられたら生きていけないと思っていたからね。
 
そんで、もう、友人を作ろう、
閉じた世界にいるのはもううんざりだ!と思って始まった中学時代。
そこで、友人ができない、いないというのは恐ろしさ以外の何物でもなくて。
そうした恐怖心に裏打ちされていたからこそ、どんなに比較されようが幻の善人なんかとも縁を切る勇気がなかったのだが。
あー、それにしてもあっちのあだ名は「祝い」でこっちは「ビョーキ」だよ。凄い対比。
友人たちも、まだ小学校上がったばかりだったので、残酷さを隠すことを知らなかったんだなぁ。
しかし、教員はこういういじめまがいのことが起こっていてもなにもしなかったな。
いや、今思えばありゃいじめだろう、と思うよ。
だって私が不快なんだもの。
程度の問題じゃなかろうて。
ハラスメントは主体の問題でしょう。
とにかく、私は迎合することによって、
あえて自らそう名乗ることによって
自らの痛みを見ないことを選択して
どうにか、人の中で生きていこうとしたのでした。
卑屈な道化(誰より力のない者)でいれば安全だと思っていたのだな。
そして、自分の道化を必要としていた人がいたのだ。
自分のために、自分より常に低いものを必要としていた人が。
私は、親への反抗心からも勉強をしていなかったのだと思うが、
道化で居続けられなくなったらという恐怖も以て、
勉強をしなかったのだろう。
という一方で、その抑圧に対するジレンマでおかしくなったりもしたわけですが。
まあ、何事も一つの理由じゃなかったわけだ。
色々あるもんだ、人間。
しかし何でこんなこんがらがっちゃうのかね。
 
そういえば、
あの親が、「あんなあだ名、正直許せない」と言っていたな。
うーん、まあ、今も文句言ってますが/笑。
親も私に相当ひどいあだ名(バカに相当/汗)を付けていた時期もあるのだが。
それはさすがに、色々言って止めてもらいましたが。
止めてもらうのに数年かかったが。
今も多少はあるのかもしれないが、
昔は親は私に所有欲みたいな執着しかないんだろ!と思っていたので
その中高時代に「なんだあれは!」と言っていても、
他人に言われるのが嫌なだけだろ、
傷つける権利は自分だけのものだと思ってんだろ、
と感じていて、無視していました。
 
どんだけ歪んでるんだ、私は。
 
そういったことを思っている一方で、
いや、問題はどこにもない、
と強く思う私もいる。
 
どうしたら一番良いのだろう。
自分に優しくするには。
何があっても、真なるものは何も問題はない、
消して傷つけられることも、それ以上のものになることもない
という思いがあり、
それを生きるのなら、
何があっても超然としていられる心を養えば
それだけでいいのではないか、とも思っている。
 
そうした信念のようなものがありながら、
私は猛烈に怒ったり、恨んだり、悲しみでいっぱいになったりする。
これが、生きるということなのだろうか。
こうしたものさえも、何かの望みの顕現なのだろうか、と頭を抱えながら思うのです。
 
まあしかし、私に何かを変える力や変えたいという意識を持つように示しているのもそれならば、
変えてしまえ、私よ、と。
というわけで、いろいろ始めます。
まず、ブログのIDにも入っている、あれを自分のIDとするのをやめる。
自分をあの名前で呼ばない。
実は携帯電話のメールアドレスにもそれが入っていて、
昨日は「あー、面倒じゃん」と思っていたが、
面倒さに屈してはいけない!
16年も何やってんだをどうにかするんだろうがー
と思っているので、
色々ご迷惑おかけしますが、そのうちメールアドレス変更もします。
あー。
大学のメールアドレスもそれ入ってんじゃん!
そっちはもう、早く博士とって所属を変える方向で!!
私がんばれー。
 
それにしても、変わりの良いIDを思いつかないんだよなぁ。
降って来い〜。
やっぱりロンロンとかふじとかかなぁ。
 
 
しかし、この改善活動、相当面倒なことになる気もするが。
それで軋轢が表層に出てきたりするだろうが。
だって友人に(向こうにとっては)急に「それはもうやめてくれ」と言うわけで。
まあ、お互い16年もすべき宿題を放置してきていたのだから、仕方ない。
私は引き受けよう。
 
この前の友人の結婚式の時も、そこにいた友人の一人に相当な失礼をされて
流石に私もその場で立腹し、反論したのだが
(今までは家に帰ってからぐるぐるしていた。そうすればそこで文句言って関係が悪化するところから逃れられるときっとどこかで思っていたのだろう)
「それでもお前が悪いんだ!」みたいなことをそいつが言っていて
あー、こいつ、私のことをまだ道化にして安心したいんだな
と思ったりしたものだ。
しかし、もう卑屈な道化にはならないぞ。
 
自分をもう、消して蔑まない。
卑屈さを求められるような道化には、消してならない。
人を励まし、暖める道化ならいいけどね。
そういった者は、誇りをなくさないから。
 
ていうか、自分が自分である誇りを大切にしていなかったということは、
他人の、その人であるからこその誇りについては、無視してきたのだな。
そして、友人との友情も、自分自身についても、何も信頼していなかったんだろうな。
もう、自らの尊さから、目をそらさないぞ。
まあ、何事もこれからです。
 
めんどうですが、まあいいのです。
怖くて当然だ、16年も停滞していたのだから。
でも、大丈夫、これから変わる。
変えていくぞ。
 
 
 
んで、どうするかというと
このブログはそのまま放置で
そのうち他に移ります(ID思いつき次第/笑)。
そっちに、こっちの日記もコピーします。
そんな感じです。
よろしくお願いします。