あけましておめでとうございます
朝、御節食べて日本酒飲んで、
あんまり眠いので寝ていたら、月が到来しました。
眠いわけですよ・・・。
御節、今年は重箱に入っていませんでした。
いつもは詰めるんですが、「もうめんどくさい」という母。
確かに面倒だ、とは思っていましたけども
年ですね。
今日は、高野山(東京)へ一年のご報告などなどに。
色々よろしくね、よろしくね、
と、つい言ってしまいます。
閻魔さんはいい男だと思います。
妄想です。
大晦日はここ数年、明治神宮に行っているのですが
明治神宮では、
「色々ありがとうございました」
だったのにね。
寺では色々頼んでるね。
付き合い長いからかね。よろしくね。
というメッセージでした。
2007年1月21日に、私はいわゆる「さとり」のようなものを観たのだが
あの後、本格的な崩壊を迎えた。
というか、もうある部分が完全に壊れていたのだが、無理やり動かしていたのだ。
一旦止めて治す、という作業を二年かけて行ったように思う。
まだまだ、「治す」ところもあるし、
求める自分になるために「学ぶ」ことも多い。
でもこれが一生続くであろうことに、不安はない。
「さとり」を得たら、「さとり」を捨てなくてはならない
と致知9月号で塩沼亮潤というお坊さんが言っていた*1。
これの意味が、よくわかるようになってきた。
「さとり」に溺れると、実際の世界の中で生きられなくなる。
なぜ、自分が「さとり」を体験したのかということが分からなくなる。
なぜ、「さとり」があるのに、現実の世界ではおぼつかない日々を送るのかわからない。
そうした混乱した時期を、「さとり」を観た人の何割かは経験するらしい。
そういった経験を超えてみると、確かに、「さとり」を捨てることが大切だとわかる。
これは別に「さとり」に限ることではなく、
すべての何か達成するもの、所有するもの、経験するものに言えるのではないだろうか。
本当に得たものであるのなら、
本当に必要なものであるのなら、
決してその本質を失うことはない
と私は感じている。
手を離せないのは、何か理由があるのだ。
失うのではないかという思いの、その理由は、自分だけが知っている。
そして、訊けば、必ず教えてくれると、私は知っている。
人であり続けよ、
ということの意味は、
普通であることの大切さを教えてくれているようにも思う。
普通に生きるために、普通に生まれてきたのではないだろうか。
しかし、普通というものは、二つとない、ということと矛盾しない。
かげがえのないものは、それでいて、普通なのだと思う。
どうぞ、すべての人にとって、今年もよい一年となりますように。