出会いと表現、境界

 
先日書いたような記憶のある、よく分からないバイトをやめることになりました。
今の私の色々の許容範囲を超えたかもしれない、と思ったらそのようで、許容量を超えそうな感じだったためです。
そのことで、色々考えていました。
 
このバイト、猛烈な仕事量で、それをやることで逆に、
自分にとって大事なものは何か、というものが見えたりしました。
この気づきは、異質との出会いによる、自己の出会いという
最近私の思う事柄に繋がっていた。
 
人との出会いによって、自分の体験の確証のようなものを見た気がして、
今日の帰り道、それについてフォーカシングや思考をめぐらせたりをしていたら、
強烈な安堵感を感じました。
あまりの安堵感に、恐ろしくなりました。
この中に落ちたら、どうなるのだろう。
しかし、恐ろしさの本質は、
実は恐ろしいという強烈な感情によって自らの関心をそちらに向かざるを得ないようにし、
対象の中にある核心に触れさせることではないか、と最近は思うのです。
なので、その中に落ちてみようか、とも思います。
今の私は、以前とは違うパターンの選択を迫られているときで、
そのパターンの変容を怖れとして感じたのかもしれない。

最近はありがたいことに、
立て続けに色々な方に会う機会があります。
人は実は、新しい誰かに出会わなければ、新しい自分に出会うことは出来ないのではないか、
という気がしています。
共感と違和感の間に、自分というものを形作る境界のようなものがある気がするのです。


人と会うときも、自らと向き合うときも、
コミュニケーションをしていて、
言語のみに限定されず、何かを授受している。
非言語の何かを多く読み取ることは、対象への認識の幅に変化を与えるだろうし、
ここをどれだけ切り取っているかどうかは、
実は自分の対象への関心の強さに対応していると感じた。
これは、大人数でゲームをする機会を偶然貰った中で、
ゲームの進行に関連して相手のしぐさなどを見ている状態と
多人数の集まりで、その中の誰かと話しているときに自分がしている、
話している人ではない人々への注意の向け方の違いから思った。
 
コミュニケーションで行われる何かの授受は、個人の境界の間で行われているように認識していたが、
実は違うのではないかという気がしてきた。
境界の認識によって自己を確認してはいるが、
他者と自分というものの間には、何か密度勾配のようなものがあるだけで
境界だと思っているものは、自分だけの妄想かもしれない。
認識は自分によってしか行われていなくて、
そのフィルターの向こう側で、本当に何が起こっているのか、
実は想像しているだけ、何も知らないのだと思う。
何も知らない、というのは怖ろしそうな印象があるが、
ここに、本当に自己を開放する手立てがあるような気もする。
 
時々、
もうこれからは、何があっても本当のことしか表現しない、と思うときがある。
恐ろしさをかなぐり捨てて、猛進しようと。
それが、出来ないということに何度も直面したりするのだが、
最近はそれさえももう、それでいい、というような気がする。
私の欲求としては、認識していたい、というのがあるけれど、
もういっそ、それすらなくてもいいのだ、とも感じる。
 
 
生きることはおもしろい。
どうおもしろがるかということを思う。
この私を体験できるものは、私しかいなくて、もったいない、
と、最近は時折思うようになった。
世界中、そしてこの宇宙いっぱいに色々なものがあって、
個の意識というものはどこまでを言うのか分からないけれど、
それぞれが、それぞれでしか体験できないのかもしれない、と思うと、
非常にもったいない、と思う。
そして、そのそれぞれが非常に貴重で、かけがえのないものだ、と思う。
そういうことが、やっと分かってきた気がする。
ひとつのものが、かけがえの無いものだなんて、
少し前の自分には全く分からないことだった。
こうして、少しずつ、豊かさを感じられるようになってきたことが、
ただ嬉しい。