和解

親と、和解しました。
全部話してみました。
自分の精神的な経験と、それによって負った思いを。
 
結果、かなり理解してもらえたようです。
自分のしたことの影響の大きさに驚いていました。
一方で、私は、あきらめることが出来たように思います。
私の両親であるこの人間は、この人間としてしか生きることが出来ないものなのだと。
この人間として生きるために生きている人間なのだと。
 
自分自身が自分としてしか生きられない唯一のものであるという
あきらめを感じ、祝福を知ったとき、
自分を受け入れ始めたのだと思う。
この受容が進み始めた自分だったからこそ、
両親をあきらめることが出来たように思います。
もう、「普通の親」でなくてもいいか、と。
 
何より、私自身が「ただ、私であること」を両親に受け入れるように要求しながら、
私のほうが、両親自身が「ただ、己であること」を許していなかったことにも気づきました。
私が私自身を「ただ、自分であること」を受け入れ始めたことで、
その人自身であろうとすることの大切さに気づいた結果だと感じます。
誰もが、「その人」自身にしかなることは出来ないし、
誰もが、「その人」の持つ輝きの代わりになることは決して出来ないのだ。
どんなに、外から見てみっともないとしても、
もう、自分を生きればいい。
それだけが、人間の人生の中の、本当の仕事だ。
そう思います。
 
 
この和解のきっかけは、従兄を亡くしたことでした。
つい先日、先週の金曜(9/28)のことでした。
従兄の葬式で親に会うことになり、
葬儀の一切が終わった後に、親と話し合ったのでした。
従兄をなくしたことと同時に、それをきっかけとして、あまりにも多くの恩恵を私は受けてしまったため
妙な罪悪感を抱えそうになってしまいそうにもなりましたが、
今は、まあ、徐々に、穏やかに受け入れる方向になってきています。
 
突然に、またあまりにも早く亡くなったため(享年32)
怒りさえ覚えましたが、
感情に善悪は無いということを前に知っていたので、抑圧せず、
これを内側から流し出すことで
彼が亡くなったという現実を、許すことができました。
まあ、頭痛で頭が真ん中からパックリ割れるかと思うくらいには泣きましたが。
 
また、大きな喪失感と痛みのおかげで、
自分の中に従兄の大きな根がはっていたこと、
自分というものが、他者との関係性の上で成り立っていることをはっきりと認識することになり、
消えない孤独感に苛まれていた自分としては、それが消えないにしても、
思い込みかもしれないという視点が出来たことで、僅かでも、安心感を見出しました。
 
そしてやはり、時間は止まらないこと
戻らないこと、
変化だけが常に続くこと、
それはきっと、本質的にはよいものでしかない
そんな感じがします。
 
今日の記事は、亡くなった従兄に感謝を込めて、ささげます。