いきあたりばったり

今日、カウンセリングの日でした。
カウンセリングは一時間ぐらいなのだが、
一時間、「コーヒーはどうするとうまいのか、あれそれは何故うまいのか」などと
コーヒーの話だけしてしまう。
私のほうに切羽詰って排出を要する膿が減ってきたってことだろうから、よろし。
一時間たったところで、あわてたように私が自分の中身の話をし、終了。
 
最後のところで、カウンセラーの先生に
「生き方が、いきあたりばったりになってきたね!」
と褒められる。
褒められる?私は褒められたと思いましたのw
自分の中の信頼が育ち始めたら、世界を信頼し始めたようだ。
なんつうか、自分も(が)世界なんだっていう感じになり始めたというか。
 
そうそう、この話題はひとつの回にして記録しようとしたけれど、
自分というのは、
自分という人生を体験するための、これ以上ない極上のデザインなのではないか
との考えが自分の中で育ちつつある。
これは、きっと人生の中に源流が存在する感覚を捉えてからのことだと思う。
源流 - フジログ
 
ものとしての自分に、かつては本当に、深く不満を持っていて、
嫌悪感でいっぱいでどうしてこうなんでしょうか、といつも思っていた。
まあ、
もうちょっとこうならねぇ・・・・・・
と、今も思わないこともないけど、
ま、いいかな、という気になってきた。
自分という人生は一回しかない、という気付きにも支えられた考えだ。
この体で、この環境で、この世界でなければ、この私であることはなく、
常に変動しながら、さらに私になっていくのが、私というモノだ。
分かりにくい文章だな。
すみません。
 
まあ、他の人には絶対に味わうことのできない、自分だけの限定品、オートクチュールがこの人生なわけで。
もうちょっと、面白がってみようか、と。
そんで、みんながみんな、そういった貴重な自分を生きているのだなぁ
と思うに至り、
他人に対する考え方もちょっと変わってきたわけです。
もっと他人も大事にしよう、と。
 
人生は、よく旅や登山に例えられる。
今になって、うまい例え話だなぁ、と思う。
登っている間の景色や辛さは、過ぎればまた素晴らしい思い出に変わることもある。
やはり、辛ければもう二度とやめようと思うこともある。
後になれば、それが教えてくれた教訓に気付くこともある。
ゆるやかな道で食べたおにぎりの味が忘れられなかったり。
過ぎた道程の経験を、後になるとまったく同じことを感じることはない。
先を急げば、それなりに。
ゆっくり進んでも、それなりに。
急げば夏の味、今一旦休めば、秋の味を。
今の味は、今だけ。
 
もっと楽しもう。
もっと、楽に行こう。
荷物を降ろせばそれなりに。
たまには、預けたっていいだろう。