恐怖について

最近の色々な気付きに関連して、物事に善悪はない
ということが何となくわかってきた。
起こっていることに善悪を付けるのはその人自身で、物事に苦悩を見出すのもその人自身なんじゃないかなと。
まあ、全部に対して達観できるなんて思っちゃ居なくて、
そういうことってこういう意味ですよね?みたいな、認知とでも言いましょうか。
感情による影響と事象を重ね合わせるのは人間なんじゃないかね、と。
そんな風に考えたら、問題は存在しないんじゃない?と思った。
問題じゃなくて、課題はあるけど。
課題を問題(悶題?/笑)にしているのは、自分じゃないかね、と。
課題は課題として以前とありますが。
うーん、issueはあるけどproblemはない、と言いたい。
 
で、
恐怖というものをそういった観点から見たら、
「負の期待」なんじゃないか、
と思った。
本来、自己防衛に使うべきところが、感情への影響力が大きくなりすぎたってところでしょうか。
「恐怖や問題は幻想です」ってスピリチュアルな人たちが言うのはこれかいね?
まあ、変化に向かう不安というのもありますが。
ただひたすらに進む人生で、真理に近付こうとする人生ならば、変化はさほど悪くならないのでは?とも思う。
だって、進む方向はあっちです、って何となく思ってたら何となくそっちへ行くもんでないか。
キャッチボールで投げるときに、相手のミットを見てやると、そっちの方に飛びやすくなるようなもんで。
そっちに投げようとして、そっち向いて投げて、ボールが斜め後ろにはそうは行かないでしょう。
無意識(深層心理)の力というのは恐ろしいもので、
そのへんはこっちが分かれば、上手く選択するものだと思う。
と、経験上、何となく思う。
 
スピリチュアルな人たちが「全ての変化は素晴らしいものです」なんていきなり言うのもどうかと思うけど。
降って湧いたような言い方しないで、堅実に経験と照らし合わせたりしながら言えばいいのになぁ。
言いたいことはきっと一緒なんだから。
 
話はずれましたが。
で、
「負の期待をしているわ!」
と思ったら、じゃあ、本当はどうしたら楽しき未来、楽しき期待になるだろうか
と思い直せば良いのじゃないだろうか。
人間の想像力は無限大だと私は思うので、そうすることで恐怖はやわらぐんじゃなかろうか。
スピーチ直前でギリギリの恐怖、とかだったらこの際、下らんエロ話でも想像するとか。
聴衆が全員メイド服なら?(もちろんジジババたちも)とか。
時間があったらそれに加えて、
「何でこんなに怖がるんだろう」
というところと向き合えば(フォーカシングとか、心理学の本読むとか)、きっともっと楽になる。
 
こんなことを、
自分に言い聞かせているわけですが。
明後日あたり、出張先でスピーチかもしれないんで・・・爆笑取れるように頑張ります!
 
みなさまどうぞ
♪♪おきらくごきらく♪♪
で!(ウゴウゴルーガ覚えている人はどのくらい居るのだろうか・・・・・・)。