源流

今日は長いですよ!
なので、何度かに分けて投稿します。
 
明後日から十日間ほど現住所から離れ(出張)、
しかもその行き先で一泊両親と一緒にいることになったため
本日、その準備に再びカウンセリングを受けてきました。
 
まあ、全体としては復習でした。
しかし、カウンセラの先生、不思議さが垣間見えましたよ・・・
スピリチュアルな話がちらり、ちらりと出るのです。
私としては「この人相手に、隠し事をしながら話しても意味なし」と思っているので
話しやすくなってありがたい限りでしたが、あんたは一体何を何処までやっているの、
と質問したくなりました。
 
 
まあ、そりゃいいとして。
親対策。
というか、最近は何か、もう責める気も無く・・・・・・。
突き放した、というか、個人として分離したといった方が近いかも。
 
自分の人生と親の人生を繋げてみて考えていたら、
何か流れのようなものを見た気がした。
で、どんなもんかというと、下記のような感じ。
 
親が自由とか正しい生き方とかを一人で求めた結果上手く行かず。
じゃあ自分のないところを持った相手と暮らすことで、
自分の助長させようとしているところと許せないところの確認をしつつ、
両方の要素(善きも悪しきも)を持ったものを中間に据える(子供=私)。
かつその人間(子)に課題を遺伝させることで、
2人の間だけでは解決できない壁に当たったときに簡単に決裂しないようにする。
時が満ちたときに中間のもの(子供=私)の中に生まれた矛盾と抑圧で反乱(氾濫)が起こり
このことで、今までの課題を一気に解決しよう、と、したのでは・・・・・・
 
こんなことに思いが辿りついた結果、
子供を作るというのは、
種の保存の他に、こういう(上記課題の遺伝のような)ことが起こってんじゃないの、と。
しかも、ぐちゃぐちゃと色々やってきた人生の事柄が、
まるで全て上手いこと配置されているような
変な感覚になったのでした。
じゃあ、命(種?)としてみたとき、
私は親で親は私なのか(境界が曖昧という意味でも)、
などとも思ったのでした。
これは、依存、執着による親子関係とは違うと感じる。
 
子育てというのは、その人の一生の基盤を作る責任があるわけです。
その点では、今でも私は両親に大いに反省していただきたいと思っている。
でもまあ、そんな課題をクリアする方向性のようなものが見えた(気がする)私としては、
私としての親(何かおかしい表現だけど)にも課題の消化を勧めたい、と思うわけです。
何より、私のために。
まあ、考えようによっては縁を切って、無視してもいいかと思う自分も居ますが。
そのくらい、親に対する考え方が粘着性を失ったとも言えますけど。
課題が解決すれば、そこの系列は「課題の遺伝」が起こらなくなるわけで、
「課題解決のための次世代」はもう要らなくなるんじゃないか、と思いました。
なんか、この考えはグノーシス主義に近いかもしれないが。
でも、今度は他の課題解決にその「次世代」が奔走することになるのかも。
救いのない話だな/苦笑。
 
で、ちょっと話がずれるのですが、それ以外の人たちについて。
友人とか、仕事仲間とかその他色々な人生に関わる人々のことね。
こういう人々も、親ほどじゃないにしても、同じような関係性の上に居るのではないか、と思ったのです。
人間というのは生まれてきたときは私の感覚だとまだ、「赤ん坊というモノ」でしかなくて、
その人自身であるとは言いがたい存在なのではないかと。
人間は、人生を重ねることで、「その人」になっていくんじゃないか、と思うのです。
これは死と生きる―獄中哲学対話陸田真志の一卵性双生児である兄は、同様の気付きに至っていない
という辺りで思ったことです。
また、私は自分と同じ生年月日、同じような家族構成の友人が何人か居ますが(これもある意味凄いことだけど/笑)、
その人たちは私とは全く違う価値感を持ち、全く違う人生を歩んでいるわけです、当然のことですが。
で、
「その人自身」になるには、人生をかけて生きていくしかないわけだけれど、
「その人自身」になる要素である他人との出会いは、素晴らしいタイミングで来ているのでは、と。
これは、いわゆる良い出会い、悪い出会いに関係なくです。
そのタイミングが、「その人自身」になる要素だとすれば、その相手の人も、「その人自身」(の一部)なのではと。
じゃあ、これって、みんな、ある意味では全てが皆ひとつである、ということか?
相互、というものがある時点で、自分ではないかと。
この考えって、
スピリチュアルの人が言う、いわゆるワンネスと同じことか?
 
ええーと、迷走してきたような話になって来ましたが、続けます/笑。
 
まあ、今まで私は
「世界はひとつです、それはあなたなのです」
などという人は、ちょっとイカレテル(失敬)と思ってました(まだ思ってる)。
でもまー、そういう(上記のような)ことじゃないんだろうか、と思うに至ったのです。
だからといって、いきなり地球平和とかを言い出すつもりは全くなくて、自分を健康に、と思うのみなのですが。
 
で、ここで思うに至った親(ある意味自分)の誘導計画ですが、
何故あそこまで失望した相手にそこまで思うようになったかと。
そりゃ、信頼とは何か、ということが見えたから、ということに尽きると思う。
人を殺しちゃいけないとかも同じことですが。
最近書いていた「わかった」というのは、下記で言いかえが出来ると思う。
真理


良心


美(ティフェレット
原理
などなど。哲学や科学、どの宗教にも必ずでてくるキーワードとして、示されている。
私の感覚としては、それ自体が「わかった」のではなくて、それが「存在することがわかった」という感じ。
まるで地下水のように、人の奥深いところを流れているものではないか、と。
教わらなくても、無視しても、本当は何が善きことなのか、みんなその深層では気付いているのではないか。
その人が、その人である根源というか、源流は必ず一人ひとりに存在しているのではないか、
ということに、気が付いた。というかわかった。
どんな人にも良心がひとかけらでもある、というのは、そういうことじゃないんだろうか。
その源流のようなものから離れていくことが、苦しみになるんじゃないだろうか。
無視しても奥深いところの自分が苦しむことになり(いわゆる良心の呵責のようなもの)、自分の源流を探すことになるのではないだろうか。
たとえば、私が病んだように。
その源流に、真理に触れることが、喜びになるんじゃないだろうか。
カウンセリングや心療内科などの仕事をする人が、
どう見ても人格的に酷いとしか言い得ない様な相手(クライアント)に対して匙を投げずに話を聞いたりするのは、
この奥深い源流が誰にも存在していることを、無意識に感じているからじゃないだろうか、と。
そのクライアントの表層の人格ではなくて、
奥深い源流の存在と、そこを目指して人は生きているのだということを信頼しているからではないか。
そんな風に思い、
私自身、酷い人格を抱えて生きてきて(昔の日記を読むと、酷さが特に良く判る/汗)
それでも、その源流の存在をわかることができたのだから、
もっと経験を積んだジジババ(両親)なら、もっと簡単にわかるんじゃないの?
ということです。
経験をすればするほど、源流から離れれば離れるほど、辛くなるというのは体験していることだと思うので。
離れすぎて不感症になることもあるでしょうが、そりゃもっと辛いでしょ。
 
人を殺しちゃいけないのは、その人が源流(真理)に行き着く道を断ち切ることだし、
自分自身もその源流(真理)から遠く離れてしまう行為だから、
と今の私は思うわけです。

よく、とんでもないガキが
「俺のこと信じてるウチのばあちゃんにだけは、悪いことはできねぇ」
とか言っているのって、そのばあちゃんがそのガキの源流を見つめていることを、暗に感じているからではないだろうか。
結局、そのばあちゃんが無意識にも人の深層に流れる源流に気付いていて、
そのばあちゃんの傍にいれば、自分も源流に気付ける日が来るのではないか、と感じているからじゃないかなと思うのです。
 
 
人間の成長は、らせん状に上昇すると言われますが(占星術とかだとわかりやすい)
その度に、その源流というか真理から離れたり、近づいたりしながら
回転半径が段々小さくなっていくんじゃなかろうか
と思う。
小川で、空舟同士が当たっても、また、ただ離れて行くだけだけど
気性の荒い人が両方に乗ってたら喧嘩になって双方オールを落としたり転覆しかねない。
小川がただ、流れていくものだとわかっている人同士だったら
人に船を当てないような操船方法や、船の舵を取られるような変な渦のありかについて話し合い、後が楽になる。
ついでに、話し相手も出来てちょっとの間、並走するという手もあるだろう。
そうするうちに、その船旅はより豊かになるんじゃないかな。
 
生きているのが気持ち悪くなってきたら、きっとそりゃ、自分の真理から離れてるぞ!というサインじゃないかな、
と思います。


もっと楽に、
もっと善く生きたい。