隠し事

愛が何かに気付いたとき、
自分にしていた隠し事がひとつ分かった。
 
私は今まで、両親を全く、心の底から愛してはいなかった。
その振りはずっとしていた。
喜びそうなことを言ったり、
喜びそうなことをしたり、
彼らをずっと試していた。
何もこちらから与えたりせずに、
本当は、私を愛していないんだろう?
社会からつまはじきにされるのが怖くて、愛している振りをし続けているだけなんだろう?
と言葉にはせずに脅迫していた。
 
彼らに、もっと私への愛を表現しろ、
と無意識に脅していた。
 
気が付いて、驚いた。
逆だと思って生きてきたから。
私は、彼らに自由を与えていなかった。
どこにいてもいい、どこに行ってもいい、
何をしてもいい、何もしなくてもいい、
そういう自由を与えていなかった。
 
二人の首に、きつく縄を絞めて、決して放さなかったのは私だ。
その手綱を自分で握りながら、私は
「私は自由じゃない」
と言っていた。
 
私はいつでも、手を放せたのだ。
二人が私から自由になることと、
愛がなくなることは別のことだ。
第一、愛はなくなるのではなく、
見なくなる、見えなくするだけのものだ。
無視するのは、分離した個人の力だ。
私が本当に彼らを愛しているのなら、形なんでどうでもいいことだ。
彼らから手を離し、
執着をやめてしまえば、
限定は何もなくなる。
 
私たちをつなぐものは何もなくなる代わりに、
つながなければならないという制約がなくなり、
共に、常に、お互いがお互いであると分かる。
私たちは常に私たちでしかない。
分離するから、つながなければいけないと思ってしまうのだ。
 
はじめから私たちが他人であるように、
終わるまで私たちは他人だ。
けれど、自分の世界しか持たない「わたし」からみれば、
彼らだって「わたし」でしかない。
 
何かに制約を与えることは
「わたし」を制限するだけのことだ。
もう、私は親という他人にすがらなくても大丈夫。
わたしでしかないのだから。
 
彼らを分離した他人として認識し、
それを無視しながらすがっていたのは、初めての他人だからだろう。
別物に頼らなくては生きてゆけないと、
思い込んでしまった幼少の私は、
そうでありながら
その「頼らなくては生きていけない状況」から自由になりたかった。
だから、二人に執着しながら試し続けたんだ。
 
わたしが愛であるように、相手もそのものだ。
同じものであると言うのはそういうことだ。
ただあるだけで、故に何も無い。
違うものであると言うとき、
それは足の指と手の指が違うと言っているようなもので、
結局は、わたしだ。
全体的であるということはそういうことなんじゃないだろうか。