他人であること

他人であることは、自己という思い込みの境界を守っているのかもしれない。
 
思い一つで人はすぐに他人ではなくなってしまう。
一度も会ったことがない人が、現実の友人のように近くなったりするのはよくあることだ。
ここに、痛みの共有という鍵がある気がするが、これはまた別の話。
たとえば、ヘッセは私の友人であると思っている。
車輪の下しか読んだことはないが、この話の下に流れる何かを「わかった!」という感覚は
私の中に強い親近感を作り上げるものだ。
そのために、相手の全てを知る労力はいらない。
一方、他人であることにも、意味がある気がする。
たとえば、時間的に長く一緒にいる研究室での学生。
なぜ、ある一定の距離を保ち続けるのか。
興味がない、プライベートを維持するため、理由はいろいろあるが
大体は頭で考えていることで、実は理由は後付けだと思う。
彼らとの距離を超えるのは実は簡単であるとも思っている。
私がただ、踏みこみさえすればいいと感じるからだ。
 
もう少し考えてみたい。
これ、この前「好きだというのは、なんなのか」と問われての経路にあるものだ。
このお題目も、非常によく分からない。
大体、感情の多くには適切な名前が付いていなくて
何か違う言葉で代用しているのだと思う。
たとえば、私はあなたを愛しているが、
私のあなたに対する愛しているという思いと、
両親に対して私が抱いている愛しているという思いは
絶対的に違うが、同じ言葉でしか表現できない。
こういう、言葉と言葉の間にある異質感みたいなものの表現の1つが
美術のようなもの、文学のようなものの中にあるのではないか。
フォーカシングも、そういったものの表現技法のひとつではないか。
吉本隆明の使う、他人に伝えるためではない表現、自己表出に
指示表出(他者との関係のためにある表現)をできる限り混ぜないで行う、
しかし他者に見える形にする、ぎりぎりの配分で指示表出を混ぜる。
ぎりぎりに純粋な自己を表現する技法としての形が、芸術の中にあるのかもしれない。
話がずれました。