物語を受け入れる

最近、模擬患者を医師の研修に提供する、というような職業の方と話をした。
 
まあ、色々話したのだが
その、自分ではない人間を演じる、ということはどういうことか。
俳優とならず、教材であること、自分ではなく相手の教材となること。
ミメーシス、なりきることと、自らを保つ(守る)ことから離れないこと。
守ることは変わらないことではなく、何かに巻き込まれるのであればそれに意識的であり続け、
自らの根を切らないことではないか(常に自らであることに覚めている、多重的精神状態を維持する)
などと思う。
 
模擬患者を演じるときというのは、色々設定をはじめに与えられるらしいのだが
結局、その設定から、その人のバックグラウンドを創造(想像)することが重要では、と感じた。
 
他者の物語を受け入れることは、
自らにも物語が存在することを受け入れた上でなければ、難しいのではないか。
 
なんだか前にチラッとどこかで聞いたことだが、終末医療でも同じようなことを言っていたような・・・。
人生を振り返り、受け入れることで、どんなに苦労があった人生でも、
どんなに幼い子供でも、よい人生であったと受け入れ、終えられると。
 
全ての人の後ろに物語があり、それがどこかで繋がっている。
 
私の物語も確実に存在し、他とはすり替えることはできない。
自分という生命の物語を受け入れる覚悟。
この物語の発生を受け入れる覚悟。
これを、ひたむきに生きるという諦めというか、覚悟というか。
 
すべてを諦め、すべてに覚悟を決めたら、
自分の無力さという妄想から脱却できるのではないかと、今思う。
そこから、自分を生きる自信、自らを信頼するものが育つのではないだろうか。
 
なんの力もないようで、誰のせいにもできない、自分で作り上げたすべて、という感覚が根付いている。
全ての断絶が、この人生という初期設定として存在する妄想じゃないかと思う。
 
 
諦め、という言葉を上記では
手放し、明け渡し(surrender)、明らかにする、完全な受容、などという意味で使った。