同じ絵は描けない

この写生会の時、私は小学生ちゃんたちの傍にいた。
本当は「お世話する」ためなのだが、彼女たちとしゃべくっていただけで、なにもしとらん。
写生会は大人も子供も、その中間ぐらいの人もいて、
色々絵を描いていた。
スタッフも絵を描いてよろしい、と言われていたので、私も描いたし、
ほぼ皆描いていた。
 
そうした絵を見ていて、思い出したというか、気がついたのだが、
 
同じ絵が一枚もない!
同じ絵が一枚もない!

 
二回言いたいくらい、びっくりした。
そして、それは、普通だ!とまた気がついた。
何でこんなことを忘れていたんだ!と思った。
こんなことに驚いている自分に、重ねて驚いた。
誰一人として、同じ絵は描かないし、描けないのだ。
似せた絵は、その人の絵じゃないという気もするが、それでも同じ絵にはならない。
似せようとしたその思いが入っている時点で、もう違う。
それに、第一絵筆を握っている人が違うじゃん!!
 
おおお〜、すごいー。
絵という形で見せられたので、個人というものが全く違うものなのだ、ということが
とてもよくわかった。
みんな顔が違うのは分かっていたはずなのに、
みんな違い、みんな全く異なった価値を抱いたものなのだ、ということを
忘れていた。
 
あー、すごい。
この、生まれた時から持っている、そして育ててきた個々という表現の物凄さに、
気付いている人がどれだけいるのだろう。
うんにゃ、
みんな分かっているけど、忘れているのかも。
それは私のように。
そして、まだ私は、ただ気付いただけ、だ。
すごいすごい、みんなすごい。
 
 
そしてこうした、個々であろうとしなくても個々になってしまう、
個々であるが故の表現は、
生きるということにおいてすでに実践されている。
ああ、やっぱりか!
自分でいようとしなくても、常に自分になってしまうし、
常に自分を表現してしまうんだ。
それがきっと、生きるということの一つの形だ。