あなたは鏡

yamaikei2008-04-20

昨日、8年ぐらいの付き合いになる先輩と
非常に穏やかな言い合いになった。
 
もう、本当に自分のためにならないことは、決してしない、
自らを消費するだけの生き方は決してしない、
真の自らを生きることが、世界のためにもなるのだ、
本当に楽しんで生きる、
深く今を味わって生きる
そういったことを軸として生きていくのだ
という自分の信念を、再確認することになった。
そしてそれはもう、簡単には揺るがないし、
自分にとっての真実なのだ。
それが良く分かった。
 
上記の私の信念を持って生きる世界を、
私の中では「新世界」と言っている。
真世界であって欲しい。
また、そうであると思っている。
それまでの、
他人のコントロールに翻弄され、
自分の価値を貶めて
本当は自らが作り出した恐れで視界を満たして
世界に溺れていたときを
旧世界、と呼ぶようになった。
 
この二つの世界は、自分で作り出し、自分で選択し、
どちらででも生きることが出来るものだ。
 
昨日、穏やかな言い合いをした先輩は、
私が非常に尊敬の念を注いでいた先輩であったが、
完全に旧世界で生きていた。
そして、そう生きろ、と示してきた。
「こうしないと、恐ろしいことになるぞ」と。
 
私は、「もうそんな価値観で生きる気はありません」と思った。
直接そんなことをいわなくても、
「まあ、色んな見方がありますよねー、人生は」
みたいな、同意ではない言い方をしていたので、
穏やかに言い合い。
先輩も、争いを極端に好まない人だったので、
口論にはならなかった。
まあ、口論にする勇気(?)というか、
「もうどうにでもなれ!」
みたいな気持ちがあったら、お互いの本音がもっと分かったのだろうが。
 
帰ってきて、一通りの怒りが収まったら、
私が本当に生きたい生き方の方向性がはっきりした。
それと共に、先輩も、怖いことが沢山あるのだな、と思った。
怖いことが沢山あるのが、普通なのだろうな。
にんげんだもの
あとは、それを見ることを選択するか否かという
それだけの違いしかないのかもしれない。
 
誤解は無い、ただ、考え方の違いがあるだけだ。
 
そして、私も、「その選択はしない」という人を尊重するだけの余裕が無くて、
相手の「その恐怖は見ない」というところを放って置けなかった。
これは所謂、
「そうですね」と言って受け流す大人の反応が出来ていない若さ
みたいなものなのかもしれない。
出来てねえ、というのがわかって、
反面、この「受け流す」ことは、「愛を以ってやれば自らをも守る」
と気がついた。
まだ、私は自分に十分な愛情を注ぎきれていないのだろう。
これは、まだ、私には十分に他者に愛情を注ぐだけの土壌が無い
とも言える、
と思う。
 
本当にやさしい、大きな人になりたい。
真実と信頼を以って、全てのものに愛情を注ぎたい。
そう思う。
 
でも、全てのものに対して、できることの割合が違って当然だ、
と、今の私は思う。
明日は違うだろう。
それでいい、
そう思う。
 
そしてまた、こういったことが他者の存在によってこそ、
明らかに自分の目の前に曝されることが可能なのだ、
と、しみじみと思い、ちょっと感謝した。
ありがたいことだ。
一人では、何も見えないのかもしれない。
これもまた、思い込みかもしれない。