答えは外にはなくて

昨年末から時々会っていた人に、
今日も会った。
 
会った後、大体妙な後悔の念に襲われていた。
うまく話せなかったとか、
変なこと言ったかもとか
まあそんなことで。
 
今日もそれがあり、
今日も感じ、そのことで、妙な後悔の念をいつも感じていたことに気が付いた。
パターン発見!みたいな。
で、その「感じ」にフォーカシングしてみた。
 
その「感じ」は「がっかりだよ」と私に言う。
心底がっかりしているよと。
よく聞くと、
「その人と話しているとき、
答えはその人からもたらされるという前提にがっかりだ」
と言っている。
「自分には答えを見つける力がなく、答えは外にあるという思い込みにがっかりだ」
「自分は無力だという前提が、無力感を生むのだ」
 
「本当の答えは、自分の中にしかないということを、もうわかっているくせに」
「相手に会うと過剰になっていたのは、初めて会ったときにもたらされた
『やはり真理は自らの中にこそあったんだ!』という感動を引き出すからだよ」
「その感動がその人からもたらされたように表層のあなたが感じて、
また味わって確かめたい思いと、共有できるのではという期待があったんだね」
「その人はあなたにとっては、信念を整理して確認するための善き道具でしかなくて、後は遊びだね」
 
 
ううーん、フォーカシング恐るべし……。
もう会わないかもなあ、「その人」には。
深いところの自分は相手を道具にしていたって気が付いていたから、
いつもつい、謝ったり申し訳ないと思ったりしていたのかもー。
それにしても、何度フォーカシングしてもここまでは分からなかったのは、
きっとそれなりにこの過程が欲しかったのかも知れないな。
 
ああっ!
これって最近出ていた「聴くこと」「買いかぶり」っていうサインの結果じゃ・・・。