無の先に2

なにもない、に囚われたまま、しばらく過ごしていた。
結局、本来は何もないのだ、というのは
私の中では「本当」のように思えたので。
ただ、この「なにもない」は善し悪しを超えた「なにもない」であるはずで、
なぜ私は、ネガティブな「なにもない」の中にいるのだろう、
それが知りたかった。
 
人の苦労は、自分の核を知るための強烈な揺さぶりではないか、と思っていた。
強く揺さぶることで、逆にその中にあるものが確実に存在し、
また自らの軸を見つけることになるのではないかと。
 
その話を友人としていたら、
「それをする人間は、美しくて、愛しいよね」
という話になった。
 
美しいよね、
という言葉を聞いて、ポツン、と小さな針穴のような光が
私の無の中にできた。
穴は小さいが、そこにしかない光は強烈だ。
 
と、突然、弥勒菩薩の気持ちがわかった(ような気がした)。
人の営みは、美しいのだ。
この足掻き、この苦しみ、この喜び、この表現は、個々の人間それぞれにしかできない、
固有の美しさなんだ。
弥勒菩薩の大きなその腕で、大きなその慈悲心で、一瞬にして人を救うのは何と容易いか。
腕を広げて、風をなでるように人々を掬い上げれば、すべて終わる。簡単なことだ。
しかし、人々のそれぞれの営みは、弥勒菩薩には表現ができない。
何一つも、同じものを生み出すことはできない。
苦しみは、わかる。苦しいのはわかる。
けれど、その営みを繰り返すことに、大きな尊敬がある。
その営みが、その人自身を救う力があることも知っている。
それによって自身を救うことは、菩薩の腕のひと掬いに比べて、どんなに価値があるだろう。
どんなに美しいことだろうか。
だから、弥勒菩薩は、最後の最後まで待つのだ。
ああ、今しも手を出したい。
ああ、苦しみを終わらせたい。
けれど、あの営みを超えるものなどない。
だから、待とう。
そういった思いではないのだろうか。
 
ああ、だから、「僕は待つことに決めた」という人の言葉を聞いた時、感銘を受けたのかもしれない。
それを今、思い出した。