偉い人はかなしい

最近、偉い人と話をする機会があった。
一度や二度ではなかったので、色々思うところがあり、
偉い人はかなしいな、
と思った。
 
立場が偉いだけならいいけれど、
心まで偉くなってしまうとかなしい。
偉い人は、大体忙しい。
忙しい上に、心が偉い人は、耳が聞こえない。
相手の目が見えない。
自分を見せること、自分から渡すことばかりになってしまって、
受け取れなくなってしまっているのを何度も見た。
しかも、
それに全く自覚がないし、
偉くなってしまっているので、誰も、それを教えてくれない。
受け取れなければ、本当は渡すことも出来ない。
渡したものも受け取ってもらったかどうかわからない状態になる。
流れが止まってしまう。
 
人によってはさらに、
無意識に場をコントロールしようとしてしまっており、
それによって場が硬直して、全体がそれ以上成長しなくなっていた。
流れを読んで、ただ伝えるというのが、司会の役目で、
コントロールしようとすると、
その思いのままにならない流れを止めてしまい、
全体が澱んで混濁してくる。
難しいのかもしれないが、
かなしい。
変なコントロールで気持ち悪さを感じるぐらいだったら、
破綻してしまったほうがいいのではないかとさえ思ってしまう。
 
かなしいな。
偉い人にはなりたくない。
かなしい人にはなりたくない。
 
 
このことを思っていたら、キリスト教のルカ福音書6章
「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである」
と言う言葉を思い出した。
あと、たしか、よしもとばななが父親の吉本隆明
「場で一番低い者でいなさい」
と言われたという話を思い出した。
吉本隆明の話は、何処で読んだのか忘れてしまった。場は花見だったと思う。*1
加えて、よく引くウェブタロット(http://www.osho.com/Main.cfm?Area=Magazine&Sub1Menu=Tarot&Sub2Menu=OshoZenTarot&Language=Japanese)の「価値」というカードでも
同じような言葉が述べられていた。
「価値のあるものになるな」と。
 
最後はちょっとずれたな。
うーん。
私は、じゃあ何になりたいかと言えば、
流れるものになりたいな。
純粋なエネルギーのような、人間になりたい。