絵の中に見る自分:ユトリロ

最近、立て続けに絵を見てきました。
うーむ。
絵を見ながらフォーカシングのようなことをすると、
自分の中にその絵が根付いて行きます。
 
福岡のユトリロ展と東京のフェルメールとオランダ風俗画展を見てきました。
 
ユトリロー。
もういい・・・。
私からすると、「画家がそこにいない絵」なのですよ。
物凄い孤独感。長く続く道は、ここに立っている自分を確立するものではなく、
向こう側にきっとあると思いたい希望に進めない自分を確認するかのようだ。
ここに居ない、ここに居たくない、他には行けない、行きたくない、というような絵。
涙が出そうになった。
孤独だ、とはっきりと、小さな声で呟き続ける。
年代が昇ってくると、もう、その孤独感すらなくなる。
なくなるというか、押しつぶして、無感覚になっていくようだ。
定規で線を引かれ、さまざまな色が乗る「きれいな」絵を見ると、
「お上手だろう?」
と言う彼の、死んだような目が見える。
だんだん感情の見えなくなる感覚。
溺れていくのにも気付かずに、窒息していくようだった。
これは、自分の孤独感を抉り出す。
何故孤独だと感じているのだろう。
なぜ、孤独だと感じることになったのだろう。
それを、彼は自問したのだろうか。
自分の感情や、自分の存在を肯定した、自分の絵は、今回の展示で見ることは出来なかったように感じた。
自分の悲しみを作り出した母。
憎みたくない思い、矛盾、悲しみ、混乱を押さえつけようとする無感情。
うーむ。
共振して、こちらが苦しくなってくる。
もう、ユトリロはいいや。
ユトリロの絵には「白の時代」というのがあって、白い絵をたくさん描いているのだが、
実際見てみると、白という色は存在しないことがわかる。
絶対的な白は存在しないのだ。
思えば、何色、という絶対的な色は存在しないし、自分で見ることも決して出来ない。
それは、自分の頭の中にだけ存在しているものだ。
 
 
絶対はない。
やっぱりそうだったんだな。
モーリス・ユトリロの冥福を祈ります。
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