雑談です

たまには、まあ、何かを追わない内容です。
 
変化ですぅ、というサインはいくらでも現れるのですが・・・。
何処に向かって変わって行っているのだろうと思います。
ううむぅ。
体と心のバランスについて考えたりとか。
 
それにしてもねぇ、フォーカシングはすばらしい手法ですよ。
どれだけ助けられたことか。
これ、小学校の授業で取り入れて欲しいよ。
保健体育とか、美術じゃないかなぁ。
国語とか道徳でもいいよね。
小学生のときにフォーカシング知っていたら、
その後の人生かなり違ってくると思います。
なにより、自己価値の考え方が変わってくるし。
そうそう、そういったヒントから
「内の知恵」「外の知恵」というのを最近思うのです。
外の知恵はもちろん、外から入ってくるものの事で、
内の知恵は自分の中に発生する気付きや、感覚によって表現される自己の本音みたいな。
あんまりうまくいえないな。
 
でも、外と内の知恵の量は、実は同じ量なのではと思うのですよ。
内に問えば問うほど、いくらでも答えてくれるわけで。
今まで、「内」の方の答えを私の場合は全く無視してきたわけだけれど
どれだけの近道を無視してきたのかなと思うわけです。
「自分の感覚を大事にしなさい」
って教育されてきた人は、
実は物凄い大きなギフトを貰っていると思ったよ。
と、そうやって教育されて大人になった人に会い、思いました。
まあ、その教育が欠けたからこそ、大切さがわかって宣伝しまくる人もいるわけで(ワタシもその口だな(笑))
自分の中で何をはぐくみたいかは人間によって違うのだから、
全てが完璧な環境でなかった自分は駄目なのだ、
みたいなことはやめて欲しい、と自らにも語りかける私です。
 
まあ、苦労あって育つものもあるけれど、
いらない苦労もあるわけですから。
そういった間を埋めるために、人間つうもんは、想像力があるのではないかな、と感じます。
だってさー、
猛烈な貧困や飢餓の悲惨さを知るために、自分がその状況になりたいかって言ったら、
絶対嫌なわけで。
その、「嫌です」という感覚こそが、
想像力の助けなのではないですかね。
自分が嫌なら他人だって嫌であろう、とかさ。
 
そうそう、
感覚を使う、
「感じ」を味わうというようなセミナーを受けたのですが、
「いやあ、違うものですね、みんな」
と思いました。
でも、そうやって違うことを認知して、
そんなことをまあ、そのセミナーだけじゃなくて色々で体験して、
なんかやっと、私の中に「本当の他人」が生まれたよ。
パラレルワールドとでも言いましょうか。
決して交差しない、もうひとつの世界。
それがたくさんあるのだなぁ、と。
「正解」は、公のものとしては、真理としては、存在しないのだなぁ、と。
違うということの良さみたいなものを感じました。
遅いよなぁ。
でも、気付けてよかったよー。
 
他人には他人にしか存在しない、その人の世界があるわけで、
自己の世界からだけでは見えない可能性が存在している。
何か共通点も持っていたりして、それがコミュニケーションの橋になるのではないだろうか。
そうして、いくつかの世界がぶつかったときに、
新しい視野や認識が広がっていくのかなぁ。
これが、批判的(critical)ということの、本来の意味じゃないだろうか。
誰かを傷つけるために、自分も他の誰かも存在しているのではなく、
既存の世界を打破するために、向き合うのではないかなぁ。
お互いがそこを判っていれば、
もっと飛躍的に色々なものが見えてきて、
しかも痛みも減るんじゃなかろうか。
そう思います。
 
あー。
↑言葉にならない何か(笑)。