「如何に生きるべきか」は意味がない

ストリングという雑誌に載っていたのですが。
(バイオリンとか、弦楽器の雑誌)
土屋賢二という哲学の人のインタビューが載っていて
「如何に生きるべきか、という問いには意味がない」
というようなことがあった。
 
哲学とはどういうものか、という話も載っていて、なかなか面白い。
何より、上記の問い。
如何に生きるべきかなんて、脳みそが沸騰してしまいそうなぐらい自問したものです。
そして、答えが出ないというのを何度も経験。
もううんざり。
とかやっているうちに、
「自分はこう生きようかな」
みたいなものは最近になって何となく感じ取り。
今に至る。
みたいな。
 
「如何に生きるべきか」
ということ、他人からも考えて生きろみたいな事を強要されたりもしましたが。
そんなもん強要してくる人こそ、
自分がどう生きたらいいかという問いの泥沼に突っ込んで、
どうやって生きたらいいのか分からないんじゃなかろうか。
生きる不安というか。
まあ、不安って、自分が作ってるものだろうなと私は思うけど。
大体、
「君は良く考えているのか」
みたいなことを行ってくる人ほど、自信がない気がする。
不安でいっぱいなんだろうな。
たいへんだ。
 
で、
土屋賢二氏の話。
共有できる、明白な答えを持たない問いは、問題として不完全である
と、言っている様に感じた。
つまり、今回の場合は、
「如何に生きるべきか」
ということは、明白な答えは存在しない。
だから、意味のない問いだ。
公然とした答えはない、意味のない問いだ、というのがこの問いの答え
じゃないかなぁ。
そういう感じで、理解した。
 
個に問いかけるものとしては、もちろん意味がある。
でも、まあ雑誌にも載っていたけど
「今日の昼ごはんは、ざるうどんにすべきか、きつねうどんか」
みたいなもので。
 
だから、「どう生きようかな〜」と、ひとり思うのは意味があるけど、
外に答えを求めても意味がない。
答えはないから。
まあ、人生の問いはふつう外に答えはない、
というのが今のところの私の経験談です。
平和も、中にしかないのよ。
そう思う。
 
そんな私は、また次の孵化手前の段階らしい。
まだまだ変わるぜ!
どんどん脱ぐぞー!
精神的ストリッパー状態。
公然わいせつ罪?/笑。