海は自分の中にある

先日の、無の先に、の後。
ぼんやり、今やっていることの師匠のことを考えていたら、
なんで、今やっている仕事が嫌になったのかわかった。
師匠が持っていた怖れや不安を、脅しという形で私が受け取っていたからだ。
夢のような輝く未来も分けてもらったけれど、
その根底にある恐怖のようなものもたくさん渡されていた。
それが、わかった。
 
じゃあ、それがなくなったら、どうだろう
と考えた。
そうしたら、
「ああ、お世話になった人たちと、固く握手を交わして
今までありがとうございました、おかげさまでたくさんのことを学びました
と伝えたら、終わっていいんだ」
という思いに行き着いた。
私は海関係の仕事をしているが、
「本当に必要なものは奪われることは決してないし、離れても、戻ってくる」
ということに最近、実感が湧いてきた。
私は海の手を離すことをとても恐れていたが、
恐れても、恐れていなくても、時が来れば離れるし、縁があれば離れることはない。
海に愛情と感謝を感じていたからこそ恐れていたが、
恐れることは何もなかったのだ。
 
あれ。
あれれ。
あんなに執着していたのに。
ああ、もう手を放しても、大丈夫。
さあ、手を放してごらん、という囁きが聞こえるようだ。
 
バイオリンを習っているときに、先生に
「これからは指をもっと放していってごらん。もっと自由に動かせるよ」
と言われたことを思い出す。
初めは、思いきり握りこむようにして練習したことで、音の出し方を知る。
それを知ったら、今度はできるだけ放していくことを学ぶ。
まるで、人生のようだ。
 
手を離したら、もっと遠くに行けるかもしれない。
何かでなければいけないことなんて、初めから一つもなかった。
自分で決めてきただけのことだ。
 
何も恐れることはない。
このまま行けばいいのだ。
私は私になるしかない。
どんどん私になるだけの人生だ。
 
 
先日、小林健二の展示を見に行った。
二回目だったのだが、今回はまた違った印象を受けた。
浮き上がれないようでいて、沈まない、今に閉じ込められた泡たちを見ていたら、
「海は自分の中にある」
という言葉が浮かんだ。
そうか、私の中にしかないのだ。
私の中にあることを忘れていたから、恐れていたのだ。
私を通して、海に触れていたのだ。
私は、私にさえなればいいんだ。
そう思った。