世界の見方

京都に行ってきました〜。
静岡時代の大学の友人宅にお世話になり。
色々話をして。
食べて見て歩いて。
 

実は私、京都が大嫌いでした。
理由はあった。
まあ、色々ね(笑)。
でも今回の旅行は、妙にトントンと話が進み、
これは、行くと良い時期なのかもしれない
ということで、行きました。
 思いの構造について、最近薄々感じていたけど、
嫌な思いをしたから嫌な場所になったんだよ、というのが良く分かった。
快、不快はまだしも、好きも嫌いは自分で決めていたんだなあ。
まあ、好きも嫌いもどちらも悪いことはないけど。
 
ずっと行ってみたかった伏見稲荷の山中で、ちょいと見てくるねー、と友人たちと分離した。
伏見稲荷は後ろに山を抱えていて、そこを歩いてお詣りするのを「お山する」と言うそうだ。
分離してお山し始めると、「ちょいと」で済まないルートと判明。
しかし時間と疲労からして、最早戻れない。
電話は圏外。
もう駄目だ、為るにまかせよう。
 
私は体力が見た目に反して全然ないのだが、さくさく歩ける。
分離する前にみんなで歩いていたとき、既に疲れたと感じていたのもどこへやら。
「合わせる」というのはそれだけでエネルギーのいることなのだと体感した。
だから、誰かが合わせてくれている時というのは有難い状態だ。
合わせるということを選ぶとき、本当にそれが必要なことか、少なくとも自問し確認しよう。
合わせてくれている人の進みを阻む場合も、その逆もある。
一方で、共にやることでひとりではできないことが出来たりする。
そんなことやらを考えて歩き続けた。
 
しばらくしたら、友人たちが現れた。
びっくりした。
私が「ちょいと」で済まないルートを進んだと気付いて、逆回りで来てくれたようだ。
その後。
また分離したが、また遭遇!
しかも、年一度の傘杉社のお焚上げに出会う。
一年の穢れを全て浄化するというお祭りだそうだ。
そうか、浄化が必要だったのかもしれない。
ありがたい偶然。
 
心配してもしなくても、為るようになってきたんだよ、
ということも伏見稲荷のお山で教わった。
心配は、自分の心がすると決めてそうしてきたのだ。
他のことも、そうだった。
そのことに、無自覚だった。
今年になって、本当はこうかもしれない、
と思い始めた心の反応や世界の見方を、
最近は色々な形で確認してきているようだ。
 
迷ったり、はぐれたり、巡り会ったり色々したが、伏見のお山の中なので、
悪いことは決して起こらないとも思い、自らに言い聞かせてもいた。
それもあって、山の中で信頼の形を見ることができたのかもしれない。
こちらが変われば、在るものが見えるようになる、というような感じ。
それにしても、伏見稲荷の山には、やっぱり神様はいたのかなぁ、と思った。
山の中に無料のおみくじがあったのだけど、同じ番号を二回引いた。
ちゃんと振ったし、32番まであり、私の次に引いた友人は、違う番号だった。
偶然がたくさん起こった。
まあ、今までの私は、偶然に気付けない状態だったとも言えるけど。
 
物凄くたくさんあるお社で、
眼力社、というところがあった。
そこで、「謙虚と感謝」と書いてある紙が売っていた。
謙虚と感謝、やっと本当の意味がわかってきた。
今までの私には、他人は恐怖の対象でしかなく、謙虚でいることは、相手を敬う心があってのことではなかった。
私なら、この二語にひとつ加えて、
「自由と謙虚と感謝」
としたい。
 
 
京都、良かった。
楽しかった。
また行きたい。